『フッサール入門 (ちくま新書)』
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ISBN:B0DZDRTJV8
現象学は、世界とかかわる私の経験の仕組みを解明し、日常の事柄に新しい視点を与え、身近な他者ともう一度出会いなおす試みだ。一生をかけて愚直に著述を重ね、認識をめぐる哲学の根本問題と対峙し、現代哲学を切り拓いたフッサール。超越論的還元、エポケー、直観、志向性、ノエシス/ノエマ、知覚、生活世界、エンパシーといったエッセンスを平易に解きほぐしながら、誰も踏み入れたことのない場所で孤独に探究しつづけたフッサールの哲学的思考を追いかける、決定版入門書。
読書メモ
経験
何かがこの世界に現実に存在していることに気づく働きのこと
知覚
感覚器官をつうじた知覚によって外界にあるものごとの存在に気づく(空、地面、空気、物体、道具)
反省
みずからの内面を反省することによって心理的なものごとの存在に気づく(感情、イメージ、思考、悩み)
空想
この世界に現実に存在しているかどうかを問題にせずに、何かを思い浮かべる働き
志向性
何かを経験したり空想したりするときに、その何かと私のあいだに成り立っている関係性
志向的対象
志向性が向かう対象
現れ
一時的に喜多さんにぼたもちの存在を信じさせるに至ったもの
現れるもの
木製のぼたもちのサンプル品そのもの
志向性はひとつの現れるものに向かっているが、その関係性は無限に多くの現れをつうじて成り立つ
自然的経験=世界あってこその経験
問題① 循環の問題
世界を経験の前提にすると、世界の存在は何によって正当化すればいいのか
問題② 像の問題
循環の問題を避けるため、「経験の後で確かめられるものと、経験の前提になっているものは別物」とする主張
経験の後で確かめられるもの=私の意識の内側に存在しているもの(像=イメージ)
経験の前提になっているもの=外側に想定された実物
像と実物の二項図式を経験全般にあてはめると違和感が生じる
喜多さんがかぶりついたのは心のイメージではなく、実物の木製のぼたもちのサンプルだったはず
経験と判断
庭のリンゴの木が見えた経験に基づいて、庭にリンゴの木があるという判断を下す
自然的態度
自然的経験をしているときの態度
経験に依存せずに世界はそれ自体で存在しているという判断を暗黙裡に受け入れている態度
エポケー(判断停止)
自然的経験において与えられるものが存在している、という判断を全面的に停止すること
括弧入れ
一時停止された判断が宙ぶらりんの状態になること。判断の停止は、判断を否定しているわけではないこと
遮断
あたかも電流を遮断して回路を止めるように、世界全般についての判断の効力を遮断して自然的態度の回路を止める
還元
エポケー(判断停止)によって経験を超越した外側の存在が留保されて、志向的対象が経験の内側(絶対的な内側)に存在するようになる、引き戻しの操作
超越論的還元
自然的態度によって経験の外側にあると思われていた世界が、絶対的な内側へと引き戻されること
世界が自然的経験にとって超越的であることを説明するために、いったん世界の存在についての判断を停止して、世界を経験の内側へ引き戻そうとする
ただしこの判断停止(エポケー)と引戻し(還元)が自然的経験を否定するための操作ではなく、むしろ自然的経験の仕組みを解明するための操作である
超越的
世界が自然的経験を超えていること
超越論的
自然的経験を超えて、それを可能にしている仕組み(自然的経験の可能性の条件)を論じること
感覚与件
経験は、対象が私に対して否応なく現れてくる。
経験によって目に映る緑色の感覚や手で触れたときのゴツゴツした感覚がうまれる。このように与えられる感覚のこと。
与件=データのこと。
感覚与件が同じであっても、それがさまざまな現れとして機能する。
洗濯物に対するヒラヒラしたものという感覚与件は、洗濯物の現れとして機能することもあれば幽霊の現れとして機能することもありうる
意味付与作用
私によって〇〇と把握されて〇〇の現れとして機能することについて、把握の働きのこと
私が感覚与件を「リンゴの木」として把握することによって、感覚与件がリンゴの木の現れという機能を果たすことになり、その現れをつうじては私はリンゴの木という対象を経験する。
体験
人生のなかでおきるすべての出来事
意識(=志向的体験)
体験のなかでも志向性をもった体験
作用
意識のなかでも顕在的に遂行されるもの
空虚
志向する作用に当該の対象がいかなる姿でも与えられていない
ザワークラウトを志向する少年の作用
充実
対象そのものが、対象に固有の姿で与えられているとき、空虚な作用が充実する
ザワークラウトを実際に食べて知覚した
直観
空虚な作用を充実させることのできる作用
日々の生活の中でものごとが具体的なかたちをとって現れるときになされる
根源的に与える直観
知識の獲得につながる直観
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(P110以降のよくわからなかった箇所をメモ的に書き出して整理する)
知識の起源=当該知識の対象が根源的に(それ以上さかのぼることができない仕方で)与えられる場面 において、対象を根源的にあたえるのは「直観」である。
対象を「根源的に与える」のは直観である
(←対象を根源的に与えるのは作用する主体の私ではない。対象を空想したらその作用主体は私であるが、それはフッサールのいう「対象を根源的に与える」とはならない)
対象が(空想ではなくて)現実に存在するか否かを決める際には、私が根源にはなりえない(=直観が根源になる)
認識を正当化する
=認識が正しいことに根拠を与える
その根拠は、つきつめれば根源的に与える直観になる
根源的に与える直観は、どれもみな認識の正当性の源泉である(P112)
=つまり、対象が現実に存在することを決めて、知識の獲得につながる直観は、どれもみな認識が正しいことの根拠を与えるということ
(ここまではわかった)
「直観」において根源的に(いわばありありとした現実性において)私たちにみずからを呈示してくるすべてのものは、あくまで直観においてそれがみずからを与えてくるときの制限内であるとしても、とにかくそれがみずからを与えてくるとおりに受け取らねばならない
みずから=経験の対象それ自体
「みずからを与えてくる」と「根源的に与える直観」に排他的な関係にない
なぜなら超越論的還元のあとには、経験(さらに言えば経験を含めたすべての根源的に与える直観)から離れたところに、対象それ自体で存在するという想定は一時停止されているからだ(P114)
ここもむずい
まず、還元が起こるとエポケー(判断停止)によって志向的対象が経験の内側(絶対的内側)に引戻される
だから超越論的還元が起こると、いったん世界の存在についての判断を停止して、経験の外側にあると思われていた世界は、経験の内側へ引き戻される。
だから経験から離れたところ(=経験の外側)に対象それ自体(=世界のなかにある対象)で存在するという想定は、エポケーによって一時停止される。
根源的に与える直観から切り離して対象について語ることはできないのであって、対象は作用の側に引き戻されている(還元されている)(P114)
(ザワークラウトの例を当てはめる)
根源的に与える直観=ザワークラウトを実際に食べたときの知覚でありザワークラウトの知識を与えた直観。
未知のザワークラウトに関する空虚な知識を充実させている
対象=ザワークラウトそれ自体
ザワークラウトを食べたときの知覚とザワークラウトは切り離せないで、ザワークラウトは(経験の外の世界から)意識の顕在的な対象の側へ引き戻されているので、
したがって対象を根源的に与えるものとして直観という作用をあげるか対象自身を挙げるかの違いは、説明の際の力点の置き方の違いでしかない
ザワークラウトが現実に存在してその知識を与えるもとして、(食べたときの知覚によって空虚な作用を充足させた)直観と、ザワークラウト自身の違いは、(どちらも志向的対象は経験の内側なので)説明の際の力点の置き方の違いでしかない
根源的に与える直観こそが私に対象について語る権利を与えてくれるという点を強調するならば、この直観が私に対象を与えるということができる。だがその一方で、根源的に与える作用から離れて対象が独立に存在するわけではないという点を強調するならば、対象が自らを与えるという事ができる。私にとって根源的に与えられているものは、対象の代理物ではなく、対象そのものなのである。
ザワークラウトを食べたときの知覚よって知識を得るような直観が、私にザワークラウトについて語る権利を与えてくれる
→知覚よる直観が、私にザワークラウトの対象(対象を認識するための知識)を与えてくれると言える
ザワークラウトを食べたときの知覚による直観から離れてザワークラウトの対象それ自体が独立に(経験の外側で)存在するわけではない
→(エポケーによって判断が一時停止されて、還元によって経験の絶対的な内側へザワークラウトが引き戻されたので)ザワークラウトそれ自体がザワークラウトに関する知識を与えるといえる。
(P115)
根源的に=それ以上さかのぼることができなし仕方で
経験を裏付けるのも、経験を覆すのも、私の経験のなかで与えられる
私自身にとって「対象そのものが与えられている!」という確信の証拠
対象の与えられ方がそれ以上にさかのぼることができないほどありありとしている
与えられ方が私にとって根源的であると理解できないと、私の経験の範囲内に落とし込むことができない
これ以上さかのぼることができない仕方で対象が現れている場面
そこに現れるものの外側に本物の対象(対象そのもの)があるということはできない
対象の代理物と対象そのものの線引は私に与えられうるものの範囲内で行うべき